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第一章第一節
老唤 (发表日期:2021-11-03 00:51:33 阅读人次:62928 回复数:1)
第一章、言語機能の多様性の条件
第一節、「実体概念」から「機能概念」への転回
「機能概念」(Funktionsbegriff)は、カッシーラーの哲学の出発点だと言える。カッシーラーは、彼の「象徴形式」の哲学と「機能概念」(1)との有機的関係を強調する。例えば、彼は『象徴形式の哲学』の中で次のように述べている。「……この著作(『象徴形式の哲学』)の最初の構想は、私の『実体概念と機能概念』という書物にまとめられた諸研究にまで遡る。それらの研究は本質的には数学的·自然科学的思考の構造を取り扱ったものであるが、その成果を精神科学の諸問題の処理にも役立つものにしようと努力するうちに、私には、一般的認識理論が従来のような考え方にとどまり従来の枠内にとどまっていたのでは、精神諸科学の方法的基礎付けには不十分だということがますます明確に見えてきた。そのような基礎付けがなされねばならないとするなら
ば、この一般的認識理論の構想が原理的に拡大される必要があるように思われてきたのだ。つまり、単に世界の科学的認識の一般的諸前提を探究するだけではなく、世界を『了解』するさまざまな基本形式を相互に画定し、そのそれぞれをできるだけ明確にその固有の傾向と固有の精神的形式とにおいて捉えるところまで進まなければならなかったのである。」<1> マ-ルブルク学派の学者として、カッシ-ラ-が『実体概念と機能概念』の中で取り扱っているのは、「数学的·自然科学的思考の構造」である。彼は、その探究によって、「真なる認識の条件は何か」という問題に答えようとしている。彼は、カントと同じように、数学的·自然科学的認識を認識の唯一の形式として想定し、その構造の解明によって「一般的認識理論」を組み立てようとしている。しかし、この認識理論によって自然科学の他の文化領域の問題を解決しようとする時、この理論が不十分だということに、カッシ-ラ-は注目した。カッシ-ラ-にとって、文化は人間経験の客観化である。文化には多様な形式があるが故に、認識には多様な形式がなければならない。『象徴形式の哲学』という書物は、『実体概念と機能概念』の中で提出された認識理論を超え、「世界を『了解』するさまざまな基本形式を相互に画定し、そのそれぞれを……その固有の傾向と固有の精神的形式とにおいて」捉えようとするものである。
しかし、『象徴形式の哲学』は、『実体概念と機能概念』に対する単純な否定ではなく、それに対する批判的受容の結果である。つまり、彼の多様な「象徴形式」は、この「機能概念」の理論を基礎として、発展してきたものである。我々は、「機能概念」の理論は「象徴形式」の理論の原点であると、考えられる。「数学的·自然科学的思考の構造」における概念に関するカッシ-ラ-の研究は、概念の「実体」に対する批判とその「機能」の分析を中心としている。彼は、二千年の間、西洋の哲学を支配してきたアリストテレスの「概念」についての理論を分析した後に、それを「実体概念」〔Substanzbegriff〕の理論として否定し、「機能概念」の理論を提出した。アリストテレスによれば、「概念」は、具体的なものからの「抽象」によって形成されるものであり、抽象化によって一般的となったものである。この一般的なるものは、本質的な実体を有している。例えば、共通点のある円形、三角形、長円形、四角形のテ-ブルから、一般的な概念「テ-ブル」が、抽象によって、形成された。この「テ-ブル」という概念は、第二次的な実体を有している。カッシ-ラ-は、アリストテレスのこのような概念を「実体概念」と呼ぶ。(2) まさにこのような「実体概念」の理論は伝統的な論理学説の「真理」として伝えられてきた。カッシ-ラ-は『象徴形式の哲学』の第一巻の中でこの理論を最も簡潔に要約している。「伝統的な論理学説は、概念が『抽象によって』生ずるとしている。即ち、概念の形成は、一致するものや表象を相互に比較し、それから『共通の徴標』を抽き出すことによって行なわれるということを教えている。」<2>しかしながら、この理論に対して、カッシ-ラ-は疑問を抱いている。つまり、共同の属性を有するものを決める基準は何であるか?例えば、どうして、あるものは円形のテ-ブルと共同の属性を有しているのに、山と車は円形のテ-ブルと共同の属性を有していないか?明らかに、共同の属性を有するものを決める前に、円形のテ-ブルとしての基準が既に存在している。カッシ-ラ-は、ジグヴァルトの話を引用して「抽象」の理論を批判する。「してみれば、ある概念をこのように抽象によって形成しようとすることは、鼻の上にかけている眼鏡を、まさにこの眼鏡の助けをかりて探そうとすることにほかならないのだ。」(3)彼に従えば、「しかしそのことによって『概念』は、演繹されたのではなく、先取されているのである。というのは、我々は、多様性にその諸要素の秩序と結合を与えるべしと判断する時に、概念を、出来上がった形態においてではないにしても、その基本的な機能において、すでに前提しているからである。」<3>つまり、概念は、抽象された結果ではなく、多様性に諸要素の秩序と結合を与える時の前提条件である。そして、それは、実体を有するものではなく、精神の働く「道具」である。
しかも、カッシ-ラ-にとって、このような「道具」は機能的「道具」である『実
体概念と機能概念』の中で、カッシ-ラ-は、概念を数学、物理学、化学等の異なった科学の領域において観察していた。彼は、概念が異なった領域において、その構造が変わることに注目した。これによって、彼は概念の構造と現実の構造との間には、実体的な意味における類似性は存在せず、ただ機能的な意味において、両者は対応しているにすぎないと考えた。それ故に、科学の異なった領域において、異なった概念の構造は特異性の発生と結合の必然性が示している。彼によれば、「真正の概念は、それが持っている内容の特性と特異性を不注意に見落すのではなく、逆に、これらの特異性の出現と結合を『必然的なもの』として示そうと努める。真正の概念が提供するものは、特殊を統合するためのある普遍的な『規則』そのものである。」<4> つまり、真の概念は、異なった領域においても、特異性の発生とその結合の必然性を示す機能を有している。彼は、まさに概念のこの機能的な意味において、「機能概念」という概念を提出した。しかし、抽象の理論によれば、概念が形成される時に、共同の属性が獲得されると同時に、特異性が消し去られてしまう。例えば、「テ-ブル」という概念は、テ-ブル一般を指していて、ある三角のテ-ブルの特異性をあらわしていない。そして、概念は一般的になれば、なるほど特異性を持たなくなる。要するに、概念は、一般的なものを指している。このような一般的なものが物の性質とされている。このような「実体概念」に対する批判は、カッシ-ラ-の哲学の重要な部分である。それは、科学における「機能概念」の観点において行なわれているだけではなく、「文化哲学」の観点においても、言語批判の広い範囲へと広げられている。カッシ-ラ-は、この批判によって機能的言語の理論を提出するのである。彼は、『人間』の中で、概念の応用範囲を科学に限らずに、一般的な物の名称にまで広げてゆく。「分類は、言語の基本的性質の一つである。命名という行為そのものが、分類の過程に依存している。物または行為に名を与えることは、それをある類概念に包摂することである。……しかし、言語の中に出てくる名称は、……実体的な物、即ち人間に依存せずに、存在する独立の実体を指示するように設定されてはいない。それらは、むしろ人間の興味及び人間の目的によって決定されている。」<5> このような分類する役目を果たす名称の機能について、彼は次のように述べている。「物の名前は、物の性質にはなんらの要求をも出さない。それはφγσειο¨γたることを、即ち物の真実を我々に与えることを意図しない。名称の機能は、常に物の特殊の側面を強調することに限られており、名称の価値は、まさにこの制限、この限定に依存しているのである。名称の機能は、具体的な事態をあますところなく指示するものではなく、単にある側面を抜き出して、これに注意を向けるところにある。」<6> このような機能的な意味においての言語は、カッシ-ラ-の言語理論の中心点を占めるのであるだけではなく、彼の「文化哲学」の欠くことの出来ない前提条件でもあるのである。
カッシ-ラ-によると、アリストテレスの論理学の中では、「実体概念」は成立しえないだけではなく、彼が「実体概念」を基にした三段論法もまた成立しない。というのは、三段論法を構成するすべての命題は、ア·プリオリな要素を前提としなければ、成立しえないということである。カッシ-ラ-によれば、「物体は重さを持つもの(である)という命題は、私が今までこの物体を持ち上げるたびごとに、一定の触覚と圧覚とが生じたということを語ろうとしているのではなく、対象において根拠づけられ、あれやこれやの感覚する個人の状態には関わりなくその対象に帰属するある関連を確定しようとしているのである。従って、個別の『ア·ポステリオリ』な判断でさえも、それが主張する関連の必然性の中に、つねにある『ア·プリオリな』混入物を含んでいる。」<7> つまり、命題の中で、概念は、実体的な意味を持っていないので、判断は、ただ「ア·プリオリな混入物」によって、主語と述語との間の結合を設立するだけである。カッシ-ラ-によれば、すべての認識の妥当性は、ア·プリオリな要素を前提としている。このア·プリオリな要素を説明するために、彼は次のように述べている。「我々は、仮説の総体そのものとはだかの事実そのものと比較するのでは決してなく、つねに、諸原則の一つの仮説的体系を、他のより包括的で、より根底的なものと対比することができるだけであるから、この発展的比較のために必要なものは、経験一般に妥当する最高の原則における、究極的な不変の『尺度』なのである。」<8>彼はこの「究極的な不変の尺度」を「論理的不変量」及び「形式要素〔Formelemente〕とも呼び、その内容を「空間と時間、量と量の機能的な従属物」といういくつかの「範疇」とした。この「不変量」の性質を説明する時、彼は次のように述べている。「自然法則的関連のそれぞれの規定の基礎にあるこれらの究極的な『論理的不変量』のみが、ア·プリオリなものと言える。ある認識は、それがなんらかの意味において経験に『先立って』あるからではなく、事実についてのすべての有効な判断の中に必要な『前提』として含まれているが故に、またその限りで、ア·プリオリなものと呼ばれ得るのである」<9> 彼は、不変量としての時間、空間、量を「ア·プリオリな要素」とし、意味を構成するその機能を強調する。この「ア·プリオリな要素」は、後で述べようとする「表現」、「象徴的Prägnanz 」における「意味」の構成の中でも重要な役目を演じている。
もしも、概念が「実体概念」ではなく、「機能概念」であるなら、その機能は一体何であろうか?カッシ-ラ-は、それを「与えられた特異性を全体と結び付けると」、或いは、「経験を構成すること」の条件としている。与えられた内容は、関係の体系において与えられるが故に意味がある。概念はまさにこうした関係付ける機能として働いている。さらに『実体概念と機能概念』の最後の部分で、カッシ-ラ-は「表現」〔Repräsentation 〕という言葉に新しい意味を与えた。彼はこの「表現」を、与えられた内容に概念的、時間·空間的な規定を与える観念的な法則としている。彼は、この概念について、次のように述べている。「それ故、表現を、特殊、つまり、今ここでの所与を全体に統合し、一つの思考上の総合に総括する観念的規則の現れであると理解するならば、その時我々は表現において、経験内容に後から付け加えられた規定ではなく、すべての経験内容の構成する条件を問題にしているのである。もしもこの見かけ上の表現がなければ、いかなる『現存せる』内容も、つまりいかなる直接
存在せる内容もないであろう。なぜなら、これらの内容もまた、それに位置的·時間的及び概念的規定性をはじめて付与するところの関係の体系に関連づけられたときにのみ、認識にとって存在するからである。」<10>「表現」は概念によって、また、概念においての表現であるが故に、「概念」は基本的に一つの「機能」として理解され、定義されなければならない。(4) この「機能」は経験内容に秩序の規定を与えること、従って、意味をも与えることである。
要するに、意識のすべての内容は、「表現」によって意味を得る。それだけではなく、「表現」がなければ、意識の内容はそもそも存在しない。ここで、重要なのは、この「表現」によって意味付けられた内容は、決して実体的な意味においてではない。ヘルムホルツによれば、与えられた内容は「記号」である。カッシ-ラ-はヘルムホルツの理論を根拠として、次のように述べている。「我々の感覚や表象は記号であって、対象の『模像』ではない。というのも、像に対しては、我々は模写された対象とのなんらか種類の類似を要求するけれども、そこでは我々はその対象を決して確認することができないからである。逆に、記号は、要素におけるなんらの事実的な類似性を必要とせず、ただ二つの構造の機能的対応性を必要とするにすぎない。」<11>この「構造の機能的対応性」の考えによって、カッシ-ラ-は一つの形式しかない認識理論を批判し、多様な形式を有する認識理論を構築しようとするのである。つまり、「表現」の理論によって、人間の意識のすべての現象を検証することができるかどうか、すべての文化の現象を説明することができるかどうかという問題が長い間カッシ-ラ-を悩ませていた。1917年までに、彼は「象徴形式」の理論を案出した後、「表現」の理論に対しての体系的に再構築し始めた。彼は、『象徴形式の哲学』の第一巻の「序論」の最後で次のように述べている。「もし精神的現実を存在者の静的な観察としてではなく、像形成の機能とエネルギ-として捉えるならば、形成の確実な共通の、典型的な原理を見付けることができるだろう、たとえそこで生み出された形態がどれほど多種多様であろうとも、やはりこの像形成作用そのものを手がかりにして、ついには形態化作用そのものの共通な典型的基本特徴が取り出されうることになろう。」<12>彼は、形態化作用の基本特徴によって、「象徴形式」及び「世界像」の多様性を把握しようとする。カッシ-ラ-の「象徴形式」の理論における「象徴的Prägnanz 」という中心的な概念は、「表現」の理論を基本的な原理とし、「表現」の理論を発展させた成果とも言える。カッシ-ラ-が意味付けの機能を「表現」と命名した後には、彼の哲学は新カント派の限界を超えたと言えるし、彼の哲学は、自分の道を辿り始めたとも言える。
回复[1]:
・ = 一个点
老唤
(2021-11-03 00:59:34)
希腊单词有误……余下部分的フロッピー尚变换不出来……
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中国有哲学吗?
又出事兒了!
第一章第一節
結論:言語機能の多様性と「文化哲学」
第二節
第二章第三節
第四節
第六節
第三章第五節
語言功能的多樣性
解讀『中國有哲學嗎?』
瞿秋白这个倒霉蛋儿
中国有哲学吗?插话六
中国有哲学吗?插话四
中国有哲学吗?插话五
中国有哲学吗?插话三
中国有哲学吗?插话二
中国有哲学吗?插话一
中国有哲学吗?(下)近现代 その二
中国有哲学吗?(下)近现代 その一
中国有哲学吗?(中)
中国有哲学吗?
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