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第四節

老唤 (发表日期:2021-10-29 08:41:50 阅读人次:51749 回复数:2)

   第四節、「象徴形式」の意味及び三つの「象徴形式」

  
カッシ-ラ-は、人間精神の機能を「象徴機能」として定義し、こうした機能の形式 即ち「象徴形式」が多様であると主張している。「象徴形式」という概念は、認識にはた だ一つの形式或いは様式だけがあるというような認識理論を超えようとする彼の認識理論 の独特な概念である。彼が『象徴形式の哲学』という著作の題目において複数の「形式」 という概念を用いるのは、複数の認識形式が存在することを強調するためである。「象徴 形式」という概念が始めて彼の著作の中に表された時、それは、一つの新たな出発点とさ れていた。彼は、『アインシュタインの相対性理論』の中で、次のように述べている。 「世界像をこの一面性から解放することは、——認識論の課題をはるかに越える——体系的哲学の課題である。体系的哲学とは、それを適用することによって系統的に分節化され た現実性の概念が与えられ——それによって主観と客観、自我と世界が分離され、ある決 まった形態で互いに対置させられる——象徴形式の全体を把握し、その全体性の中に各個

  
別をその決まった位置に割り振ることである。」<1> 明らかに、カッシ-ラ-は、複数の「象徴形式」という概念によって、多様な形式を有する体系的な「世界像」を提供しようとしている。同年、カッシ-ラ-は初めて「象徴形式」に明確な定義を与えた。彼は 『象徴概念の本質と作用』という著作の中で、次のように述べている。「一つの『象徴形 式』とは、一つの精神の意味内容が一つの具体的な感覚の記号と結合され、それに内的に 付着されるようにする精神のあらゆるエネルギ-のことである、と解すべきである。」<2>この引用文は、「象徴形式」が「精神のエネルギ-」であることを表明している。

  
『象徴形式の哲学』の中で示されているように、この「エネルギ-」という概念は、ハリスの芸術理論とフンボルトの言語理論の影響を受けて、形成されたものである。ハリ スは、初めてこの物理学の概念を芸術理論の領域に応用した人である。その後は、フンボ ルトがこの概念を、言語理論の中で使用した。フンボルトによれば、「言語自体は作品 (結果)でもなければ、一つの作品でもない、エネルギ-(活動)である。そして、その 真の定義は、ただ発生的なのである。」<3>つまり、彼のエネルギ-はアリストテレスが「作品」(エルゴン)と区別するために用いている「エネルゲイア」を一層具体的に 規定したものとも言える。カッシーラ-によると、「ここにはじまってこの区別は言語理 論にも影響を及ぼし、結局この区別はフンボルトによってもっとも明確な定式化と厳密な 体系的表現を与えられることになる。言語も芸術と同様に精神の単なる作品『エルゴン』 と考えられるわけにはいかない。それは精神に独自な形式及び、『エネルギ-』(エネル ゲイア)と考えられねばならないのだ。」<4> この引用文の中で、カッシ-ラ-は 「形式」と「エネルギ-」とに同じ意味を与えた。彼が強調したいのは、言語及び芸術等 の文化形式が「精神の単なる作品」であることではなく、それが精神のエネルギ-として の「独自な形式」であることである。カッシ-ラ-が「形式」を「精神のエネルギ-」と 呼ぶのは、前に述べたように、一つの体系的哲学を建てようとする大きな希望があるから である。彼は、諸文化現象にある共通の特徴、即ち、それらが「象徴形式」であること、 を見いだそうとする。しかも、彼は、「象徴形式」がただ一つの様式、文化の一つの領域

  
の中に限られることに満足しない。人間の精神のさまざまな現象は、多様な「象徴形式」 を前提としなければならない。「一つの象徴形式」というのは、働いている精神のエネル ギ-の一つの形式、即ち、認識の前提条件としての一つのア·プリオリな様式である。 「象徴形式」に、「表出」·「表現」·「表意」という三つの様式があるために、神話· 芸術·言語·科学·宗教及びさまざまな文化の現象が形成されてきたのである。

  
カッシーラーは『象徴形式の哲学』の第二巻『神話的思考』の第一章の冒頭で、この 著作全体を紹介して、次のように述べている。「批判哲学の第一の本質的洞察によれば、 対象はすでにできあがり固定されたかたちで、つまり、その『ありのまま』の即自態にお いて意識に『与えられる』ものではなく、表象の対象に対する関係は意識の独立した、自 発的な行為を前提としている。つまり、対象は総合的統一に先行して、その外に存在する ものではなく、むしろこの総合的統一によってはじめで構成されるものであり、——対象とは意識に単純に刻印されてできる捺し型などではなく、意識の基本装置、直観と純粋 思惟の諸条件の力を借りて果たされる形成作用の結果だ、ということになる。『象徴形式 の哲学』は、批判主義のこの基礎的な考え方、このカントの『コペルニクス的転回』の基 本的原理を採用し、さらに拡大しようとするものにほかならない。」<5> カッシ-ラ -によると、「存在」或いは「世界像」の意味を解明するためには、精神における「総合 的統一」の「形成作用」を究明しなければならない。この場合には、この「総合的統一」 の「形成作用」は、エネルギ-としての「象徴形式」、即ち、「象徴的Pr&#228;gnanz 」 の法則を原則としての認識と言ってもよいし、『象徴形式の哲学』の原点と言ってもよい。 しかし、『象徴形式の哲学』の中でカッシ-ラ-によって与えられた「形成作用」の姿は、 カントのそれ及び「表現」の定義の中のそれと、既に異なっていた。カッシ-ラ-の「象徴形式」の定義と「表現」の定義とを比較するとき、我々は、二つの概念の前提条件とし てのア·プリオリな要素が変わっていることを認めざるをえない。「象徴形式」の定義は、「表現」の概念を基礎としてはいたが、「不変量」は、諸象徴形式に適用することができ なくなった。つまり、時間、空間のいくつかの範疇は、『象徴形式の哲学』の中で述べら れているように、もっと広い意味で立て直されなければならなくなった。彼が「象徴のPr&#228;gnanz 」の定義の中で、「不変量」の代わりに、「意味」という概念を使うのは、「ア·プリオリな要素」により広い内容を与えようとするためである。というのは、異なった認識の様式は、多様な「意味」を前提としなければならないからである。

  
体系的な「象徴形式」が『象徴形式の哲学』という著作 の中に表されている。もしも、『実体概念と機能概念』が科学における概念の機能を中心 的問題とすると考えるなら、『象徴形式の哲学』の第一巻は言語における「表現」〔Ausdruck〕の機能、第二巻は神話的思考における「表出」〔Ausdruck〕の機能を中心の問題としていると言える。ここまで、カッシ-ラ-は、「Ausdruck」 という概念を「言語の一般的な機能」を意味しているものとした。彼は、「感覚的表現の位層」〔der Phase des sinnlichen Ausdrucks〕、 「直観的表現の位層」〔der Phase des anschaulichen

  
Ausdrucks〕、「概念的思考の表現」〔Ausdruck des brgrifflichen Denkens〕という三つの位層を言語機能に帰属させた。しかし、「認識の現象学」という第三巻の中で、カッシ-ラ-は、ここまで研究してきた科学·言語·神話の順番を逆転させ、この第三巻の第一部分に神話を、第二部分に言語を、そして、第三部分に科学を置いている。そのために、彼は、「表出」〔Ausdruck〕、 「表現」〔darstellung〕、「表意」〔Bedeutung〕という三つの「特殊な機能」を言語に帰属させ、「Repsentation 」という概念を言語の 一般的な機能を意味しているものとした。ここで、論述の順序を逆転させている理由は、第三巻の「前書き」の中に見出すことができる。 そこで、カッシ-ラ-は、「真理は全体である。しかし、この全体は同時に表されることが できない。それは思想によって、それ自体の自発的な運動とリズムにおいてだんだんと表 されなければならない。」と述べている。<6> 彼は、ヘ-ゲルの「現象学」の思想の影響を受けて、「自発的な運動とリズムにおいて」の精神発展の分析によって「真理」全体を表そうとする。それ故に、カッシ-ラ-は、第三巻の論述の順番を逆転させ、第三巻を「認識の現象学」と呼ぶのである。「現象学」という概念について、彼は次のように述 べている。「認識の現象学について語る時、私は、『現象学』という言葉を、現代の意味においてではなく、ヘ-ゲルによって設立され、体系的に基礎づけられた基本的な意味において言うのである。ヘ-ゲルにとって、現象学はすべての哲学の知識の基礎になった。 というのは、哲学的な知は文化の諸形式の全体を包含しなければならないし、また、彼の 考えでは、この全体は、ただある形式から別の形式へと変化していくことにおいてのみ、 表すことができると、彼は主張しているからである。」<7> このような「現象学」の 意味において、カッシ-ラ-は、「象徴形式」が「表出」·「表現」·「表意」の三つの 段階を経て、また、この三つの位層によって体系的に構成されていることを主張している。

  
しかし、カッシ-ラ-の現象学と、ヘ-ゲルのそれとは基本的な相違がある。という のは、ヘ-ゲルの現象学における弁証法は、文化のすべての領域で、原則として変わらな いし、また、最終の形式において完璧に至るものであるからである。カッシ-ラ-によれ ば、「(ヘ-ゲルの)現象学が呈示する多様な精神的諸形式も、結局はいわば最高の論理 的頂上に帰着する、——そしてこの終極点においてはじめて、それらがおのれの完成さ れ た『真理』と本質とを見いだすことになる、というわけである。その内容がいかに豊かで あり多様であるにしても、やはりそれらの形式は、その構造上、唯一の、ある意味では一 様な、法則、つまり、概念の自己運動の不変のリズムを表わしている弁証法的方法という 法則、に従っているのである。」<8>しかし、カッシ-ラ-の「象徴形式」には三つの異なった様式があり、この三つの「象徴形式」は人間の認識に対して等しく重要な意味を持っている。もう一つの相違は、ヘ-ゲルの永遠に不変な弁証法が人為を超えたものと されているのに対して、「象徴形式」が人間精神の発展に従って、形成されたものとされ ていることである。そして、ヘ-ゲルの「現象学」が概念の演繹から始まるのに対して、 カッシ-ラ-の「現象学」は、神話の分析から始まるのである。ハイデッガ-は、『カッ シ-ラ-の神話の思考について』という論文の中で、カッシ-ラ-の思想に対する評価は、 「この体系の基本的概念を作り出した、また、その最終の基礎を立て直した後、」初めて 可能である、と言った。(1) というのは、カッシ-ラ-は、『象徴形式の哲学』の第一巻と第二巻の中で、体系的な「象徴形式」の根拠を論理的に提出していなかったからで ある。おそらくそれゆえに、カッシ-ラ-は、『象徴形式の哲学』の第三巻で、「意味」 という概念を特別に強調し、その概念を体系的·論理的に立て直した後、「象徴的

  
Pr&#228;gnanz 」という先験的な原理を提出したのであろう。この新しい基礎的な原理の上 で、『象徴形式の哲学』の体系が、もう一度立て直された。

  
前に述べたように、「意味」は、知覚の法則であり、多様な次元を有している。カッ シ-ラ-によると、この「意味」の多様な次元があるために、「象徴的Pr&#228;gnanz」は多様な「象徴形式」において働いている。我々は、「一定の種類の意味」が「意 味」の一つの次元を指し、「一定の非直観の意味」が「意味」の「ア·プリオリな要素」を指していることを認めることができる。カッシ-ラ-は、「象徴形式」の最も原始的な 基本的機能は、「表出機能」〔Ausdrucksfunktion〕であり、世界が最初は「表出的世界」〔Ausdruckswelt〕であることを主張している。第三巻 の第一部「表出機能と表出的世界」で、彼は次のように述べている。「我々は、我々の改 造において、この表出の層に戻らなければならない。というのは、この層は、神話の生み 出された原因であるし、また、我々が経験の世界観の確実な特徴を解釈することと、その 起源を尋ねることに対して、この層を理解することは、必要であるからである。」<9>(2)ここでの「改造」というのは、前に述べたように、第三巻の中で、論述の順番を 逆転させることである。そして、「層」というのは、「意味」の一つの「次元」、「象徴 的Pr&#228;gnanz 」の一つの様式、あるいは、「象徴形式」の一つの機能ということである。カッシ-ラ-は、「神話的概念」に示されている多くの事実を根拠として、次の結 論を出した。「表出機能」については、「明らかに、その特権は、イメ-ジと物、記号と 指示されたもの、を区別しないことである。」<10>即ち、「表出機能」が我々に与えるのは形象の直観である。「神話的思考」においては、「神話的概念」がそれに示される ものそのものであるので、世界は「神話的世界」として存在している。その原因は、「表出機能」の中に、「一定の非直観の意味」あるいは、ア·プリオリな要素としての時間、 空間が「経験の不変量」の形にまだなっていないからである。時間と言えば、ただ「生物的時間」〔biologische Zeit〕、あるいは、「段階感」〔Phasengefühl 〕というようなものにすぎない。(3)このような「生物的時間」は、三次元の時間ではない。つまり、過去と未来を有していない、ただ現在だけのものである。 そして、「原始神話的『段階感』は、ただ生命のイメ-ジの中に、時間を捕えることがで きる。それ故に、この『段階感』は、必ず時間の中で動いているすべてのものと、時間の 中で一定のリズムに従って往来しているすべてのものを、生命の形式に置き換え、溶かさ なければならないのである。」<11>そして、神話的意識にとって、死ぬことは、生きていることの「未来」ではなく、新しい生命を得ること、あるいは、新しい様式の中で生 きていることである。生と死と同様に、夢と現実、私と世界も無差別である。故に川、山、 風、木等のすべての現実は生命を有するのである。要するに、世界の意味は、「表出機能」 を前提としている。

  
カッシ-ラ-によると、「日常的言語」の成立は、「意味」、あるいは、知覚を構成 する法則における時間·空間の規定を前提としている。こうした言語のお陰で、「象徴形 式」は二つ目の機能、即ち、「表現」〔Darstellung〕機能を得ることができる。カッシ-ラ-によれば、「言語は、初めて再発見と再認識の可能性を提供した。その 可能性のお陰で、空間·時間によって区別された全く違う現象は、一つ、あるいは、同じ 主題の現れとして、ある特定の、自己同一の神の啓示として、理解された。」<12>ここで、注意すべきことは、言語は、我々の向こうにある所謂「純粋な客観的なもの」を表 現するのではなく、意識の中に与えられたもの、あるいは、「表象」を表現するというこ とである。そして、言語において、表現と表現されるものとは、実は、同じものである。 「というのは、意識の内容自体は、ただ与えられるものとして、または、ただ表現するも のとしてあるだけではなく;むしろ、すべての真の経験は、この二つの要素を分離するこ とができずに包含しているからである。すべての与えられた内容は、表現という意味にお いて働いている。同じように、あらゆる表現は、意識の中に与えられたものとの結合を要 求している。」<13>その上、表現された内容は、時間·空間·数の関連の中において しか、意味を得ない。というのは、言語自体は、その関連の秩序を持っているということ である。時間を例として見れば、すべての言語が三つのテンスを持っているだけではなく、 「あらゆる瞬間は、三つ組の時間関係と時間意図を直接に包含している。現在、あるいは、 今は、表現の行為によって、つまり、現在の中に包含されている過去·未来を参照するこ とによって、現在としての性格を獲得している。従って、ここで、『表現』は、『表象』 に加えられるだけではなく、むしろ現在の意味と核心を構成している。内容と表現、存在と象徴、を区別するすべての試みは、もし成功したら、時間の生きている神経をうちこわ すであろう。」<14>このような時間は、「表現機能」の法則を構成する重要な要素で あって、世界は、このような「表現機能」を前提として、「直観的世界」となっている。

  
カッシ-ラ-は、「象徴形式」の第三の機能を、「表意機〔Bedeutungsfunktion〕と呼ぶ。言語の進化につれて、語はますます単なる表意的記 号の地位へと移ってゆく。こうした科学的概念は、日常的言語の感覚的表象を止揚しなけ ればならない。「表意機能」において、世界は、科学の世界、即ち、「純粋な意味の体系」 として存在している。このような「純粋な意味の体系」は、現実の模写ではなく、逆に、 カッシ-ラ-の話によると、「それとものとの『類似』が、見付からなければ、見付から ないほど、それは存在と出来事の法則であることを、いよいよはっきり感じる。」<15>つまり、「純粋な意味の体系」は、それ自体の純粋な法則において、生命を持つ。例え ば、科学世界の時間と空間は、神話的世界や直観的世界の時間と空間とは違う。それらの 特定の意味は、純粋な法則によって与えられるのである。この意味において、三つの象徴 機能は、「批判主義の基礎的な考え方」即ち「コペルニクス的転回の基本的原理」におい て共通点があるけれども、そのア·プリオリな条件は異なるのである。

  
「認識の現象学」の中には、「純粋な内容」と「純粋な形式」は、存在していない。 知覚されたものは、知覚されたが故に、形式において存在し、表現されたものは、表現さ れたが故に、一定の形式を有している。「表出機能」において、世界は、「神話的世界」 として存在している。「表現機能」において、世界は、「直観的世界」として存在してい る。「表意機能」において、世界は、「純粋な法則の世界」として存在している。世界は、 「象徴的Pr&#228;gnanz 」の異なった「意味」において表現されている。つまり、異な った「象徴形式」によって表現されている。そして、世界は、異なった意味を有するのである。「象徴形式」は、認識の先験的な形式を指している。この先験的な形式は、カッシ -ラ-によると、天賦の、経験の前に先行しているものではなく、すべての精神現象の法 則である。しかも、カントの言ったように、単一の、固定的なものではなく、発展的な、 多様な性格を有しているものである。むしろ、それは、一つの生命のあるものである。こ の意味において、カッシ-ラ-は「象徴形式」を「エネルギ-」と名付けた。同じ意味に おいて、カッシ-ラ-は、「象徴形式」を、「認識の形式」としてだけではなく、「生命 の形式」としても強調していた。(4)カッシ-ラ-は、内容と形式との分離を認めない。彼は、いろいろな物質と観念、精神の内容とその形式との区別を前提としている静的 な理論を批判してきた。その目的は、カントの提出した「真なる認識の条件」をよりしっ かりした基礎の上に立て直したいということである。彼は、ニュ-トンが主張したような 独立した時間、空間及びカントが提出した生命のない「不変量」、「範疇」を認めない。 彼にとって、知覚の内容は、知覚されたが故に、すべての瞬間に意味がある。というのは、 生命は、いかなる瞬間においても生命であるからである。認識は、内容を有すると同時に、 その内容に形式も与える。カッシ-ラ-の「意味」は、すでに生命のある多様な「象徴形 式」の中に溶かされた。それ故に、カッシ-ラ-は、「内容と表現、存在と象徴を区別す るすべての試みは、もし成功すれば、時間の生きている神経をうちこわすであろう。」と 言っている。(5) 異なった「象徴形式」によって、世界は、異なった「意味」におい て表されている。歴史的観点から見ればには、認識は発展していくものであり、体系的観 点から見れば、認識は一つの多様な、秩序ある統一的有機体である。

  




 回复[1]: 注: 老唤 (2021-10-29 09:08:13)  
 
  “&#228;” = a上面加两点。

 回复[2]: 读论文前还得先学会老唤拉兹转换,这难度也忒大 采夫 (2021-10-29 14:41:54)  
 
  

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