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中日文化交流:再谈教养问题
东京博士 (发表日期:2007-02-18 12:52:02 阅读人次:4918 回复数:34)
以下是本人组织的另一场中日关于现代人的教养问题的交流讨论。参加发言的中国人均不懂日本,日本人不懂中文,所有翻译是本人当时即时翻译的,如有词不达意之处请谅解,译文仅供参考。
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日本人楠先生(50年代生,男,东京)——
在中国[教养]这个词汇也同样被使用,与日本类似有关教养的议论不休觉得很有意思。大概中国人和日本人对此问题的共同点很多的。
据说在日本的大正年代(1912-1926年)[教养]这个单词开始出现了,这个证据就是在再以前的明治的大槻文彦有名的辞典[言海]中并没有出现这个单词。(中国人或许不相信,[文化],[教养],[自由]等单词是日本人制造出来的,这是当时在日本学习的中国留学生带回中国以后普及的东西)。
教养在近代以前的时期,毫无疑问是与阶级相结合的,统治阶级独占了教育,文字的读写知识,古典知识,都是统治阶级的独占物。贵族是被规定了的阶级制度保证了的身份,在很狭窄的圈子中传授知识和信息,贵族的后代当然是受过教育的贵族,文盲的农民的后代只能成为农民。在这种世界里,不可能产生教养的概念的,因为不具有普遍性。
但是,社会从农业转向了近代工业,普通人也开始担负起了工业社会,这样不得不有一定程度的读写和算术知识才能提高社会效率。并且为了让社会更进步,又开始要求有更有高度的知识了。因此,基础教育,高等教育的门开始向大众敞开了。
最初人们获得的基本知识都局限于小学教育,能上大学的还不到1%。精英中的精英才接受高等教育,他们的将来就是被认为脑子很好的[学历贵族]。因此一定程度上悠然地生活也没事。相反,只要说些百姓不懂的高谈阔论,都会觉得他们好伟大哦。学了外语,什么康德啦柏拉图啦,也读些思想性的,哲学性的书,这些知识体系,被模模糊糊称为[教养]。有教养的人都是了不起的。披上了一层不同于百姓的光芒,也得到社会的承认。
可是,没有多久,产业社会不断要求更多的知识,上大学的人不断增加,只要上了大学,就可以不再干工人农民那种很累得活,穿着白衬衫坐在干净的办公桌前工作,成为有固定收入的[工薪阶层]了。谁都想成为大学生,于是[考试地狱]诞生了。大学也不得不增加招员。特别是战后的日本,到处新开大学,同龄人上大学的比例不断增加,现在大概上大学的达到50%,这是[大学大众化]现象。于是,这么一来,上大学已经成了理所当然的事了,谁都不认为有啥了不起。读康德啦,柏拉图啦都失去了魔力,只不过被人问一句康德是什么东西啊就完了。工薪阶层的如果是搞营销的,说不定还是多余的知识,与其相比,还不如在客户的招待会上,跳个裸舞,给低级的客户逗个趣对公司的利益来说会更有用些。因此,在日本[教养]受到了遍地,正所谓[教养的死]。
大概是至今为止对[学历贵族]的潜在意识中的一种怨念的帮助吧。
那么现在究竟什么流行的?[专门知识]。不管哪个领域,只要有不输给别人的一定深度的知识,就会得宠于社会,成为出人头地的秘诀。当今,任何公司都希望有精通电脑的人才,或者汽车公司,如果是对引擎有很深的新知识,或才能的学生,简直是求之不得了。
或者可以说对教育本身从头到脚否定,开始就考虑与教养无缘的职业棋手,职业足球,职业音乐家。起码这些毫无疑问是很受女性们宠爱的。
于是日本的大学生开始用PANKYO这个词侮辱教养。医学科的学生,第一年就想学专业课,工学科的学生立刻就想碰机器。这是将来的pan(面包)所以他们不懈一切。教养作为学问是[灰色]的,是对年轻的身体的束缚,毫无疑问被认为是对青春的一种浪费。
另一方面,社会上一直有一种严厉的眼光,这就是所谓的正气。不知何时,把这些专家骂为[专门混蛋家],他们精通专业,其他方面简直像孩子似地考虑问题。在日本发生的欧姆真理教事件,受过大学教育或研究生教育的知识分子,居然相信[空中浮游]的教义这类新兴宗教,结果制造了无差别杀人事件,另社会大为震惊。
当然这是极端的例子,当然例外的不说,一般,专业化越深有关人生和社会的哲学也越狭窄。因此晚上去酒馆与[专门混蛋家]说话,不久就会打哈欠,容易陷入成为乏味,没有冗余度,没有深度的人。
但是,高级的东西什么都不知道的话,也不会得到别人的尊敬。表面在应付,心里在讥笑你真是个蠢货。
那么,究竟如何成为既拥有专业知识能对社会有用,同时又具有宽阔的视野,有深度的人呢?如果废除了以前的[教养],那么那什么来代替它呢?这就面临着这样一个根本问题。有的人很重视与优秀突出的人交往,有的人说不定崇尚音乐电影等艺术。日常生活中还有人重视旅行等实际体验。
要不就是干脆不去追求[具有宽阔的视野,有深度的人]。让这些都见鬼去吧,这就是一些冷峻地生活才是真正的人生的人。抛弃沉重的东西,选择像贝克姆,木村拓哉那样潇洒地生活。。。
答案不是统一的,也不应该统一。但是随着年龄增长,对这个问题的自问却越来越沉重。到了40岁,自己年轻时选择的道路已经无法改变。一直沿着[没有教养]的道路作过来的人,是无法一下子成为有教养的,信奉[教养]的人也成不了贝克姆,木村拓哉。20岁那是决定的道路,难道不是终生走下去的吗?
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教養という同じ言葉が中国でも使われ、日本と同じような議論が戦わされるのに興味を覚えます。たぶん中国人と日本人は、この問題では、共通点が多いと思います。
日本では、大正時代(1912~1926)に入って、この「教養」という言葉が作られたと言われています。その証拠に、明治の大槻文彦の有名な辞書『言海』には、教養という言葉は出ていません。(中国人は信じたくないでしょうが、「文化」「教養」「自由」などといった言葉は、日本人が作り、それを当時日本で学んでいた中国人留学生たちが中国に持ち帰り、普及させたものです。)
教養は、近代以前は、間違いなく階級と結びついていました。支配者階級が教育を独占し、文字の読み書きの知識、古典の知識は、支配者階級の独占物でした。貴族は、固定的な階級制度によって身分を保証され、狭いサークルの中で知識;情報が伝授されていただけですから、貴族の子は、自然に教育ある貴族になり、文盲の農民の子は文盲の農民になるしかありませんでした。そんな世界では、教養という概念は生まれません。一般性を持たないからです。
ところが、社会が、農業社会から近代工業社会に移行し、一般の人々が工業社会を担うようになりますと、どうしてもある程度の読み書きと算数の知識があったほうが効率がいいということになりました。また、近代社会を進歩させるためには、次第に高度の知識が必要になってきます。そういうわけで、基礎教育と、高等教育の門が大衆に開かれるようになったのです。
しかし最初は、ほとんどの人間はごく基本的な知識を得るだけの小学校教育で終わりでした。大学に行く人は1%未満だったでしょう。エリート中のエリートだけが、高等教育を受けました。彼らは将来が約束されていた頭のいい「学歴貴族」だったわけです。したがってある意味ではのんびりしててもよかったのです。むしろ、庶民の知らないような高踏的なことを言っていれば、それだけ偉く見えました。外国語を学び、KantだとかPlatoだとか、思想的な、哲学的な本を読んだりしてたのです。そういう知識体系を、ぼんやりと「教養」と呼ぶようになりました。教養ある人は、エライ人であり、庶民とは別人種なんだという光輝が与えられ、社会もそれを認めていました。
しかしやがて、もっともっと多くの知識が産業社会で要請されるようになると、大学に行く人が増えてきました。大学に行けば、辛い仕事を強いられる工場労働者でも農民でもなく、白いシャツを着て綺麗な机の前で仕事をする、固定給を保証された「サラリーマン」になれるから、みんな大学生になりたくて、「受験地獄」が生まれました。大学もしだいに学生の定員を増やさざるを得ませんでした。特に戦後の日本は、各地に大学を新設し、同一年齢層での大学に行く比率はぐんぐん伸びました。今や、同一年齢層の約50%の人間が大学に行くのです。「大学の大衆化」現象です。さて、そうなりますと、もう大学に行っても、あたりまえのことで、誰もそれだけで偉いなんて思ってくれません。KantだとかPlatoだとか読んでも、神通力は失われてしまったのです。Kantが何だ、と言われるだけです。サラリーマンで営業の仕事をこなすには、むしろ余計な知識にすぎません。それより、お客さんを招待した忘年会で、裸踊りでもして、下品なお客さんを面白がらせたほうが、会社の利益には役に立ちそうです。そのようなわけで、日本では、「教養」は貶められるようになりました。所謂「教養の死」です。これまでの「学歴貴族」に対する潜在意識的な怨念も手伝って
いるでしょう。
では今は何がもてはやされるようになったかというと、「専門知」です。どんなに限られた領域でもいいから、他人には決して負けないような深い知識を持っていることが、社会でモテるようになり、出世の秘訣になったのです。今ですと、どの会社も、コンピューターに精通している人材は欲しいでしょう。あるいは自動車会社だと、エンジンについて深い新しい知識や才能を持っている学生なら、咽喉から手が出るくらい欲しいはずです。
あるいは、もう教育自体を頭から否定して、最初から、教養とは無縁の、将棋のプロ、サッカーのプロ、プロのミュージシャンを目指したほうが得なようにも考えられているのです。少なくとも、そのほうが間違いなく女性にはモテます。
というようなことで、日本人大学生も、一般教養のことを「パンキョウ」と侮蔑的に呼ぶようになって久しいのです。医学部の学生なら、1年生から専門が学びたいでしょうし、工学部の学生なら、すぐ機械いじりがしたいでしょう。それが将来のパンにつながるのなら、なおさらです。それに教養的学問自体が「灰色」的で、それに若い肉体を縛りつけておくのは、せっかくの青春の浪費だという感覚も間違いなくあります。
しかし一方で、世間は、いつも厳しい目を持っていて、正気なことを言うものです。いつのころからか、そういう専門家たちのことを「専門バカ」とも呼ぶようになりました。専門のことは良く知っているが、他のことではまるで子供のような考えしかできないからです。日本では、オウム事件というのが起こり、大学教育や大学院教育を受けた「知識人」が、「空中浮遊」などの教義を信じる愚かしい新興宗教にはまりこんで、無差別な殺人事件を起したことがあり、世間を慄然·唖然とさせました。まあそれは極端な例ですが、大体、専門化が深まれば深まるほど、例外はありますが、一般的に、人生や社会については、チャチな哲学しか持てなくなります。だから、夜、飲み屋に行っても、「専門バカ」と話していると、あくびの出るような話しになってしまいます。味のない、幅のない、深みのない人間になりがちなのです。
また、高級なことを何も知らないような人間は、世間はけっして尊敬しません。表面でもてはやしても、肚では馬鹿にしているのも厳然たる事実です。
じゃ、一体どうすれば、専門的知識を持った、社会の役に立てる人間であると同時に、味のある、幅広い視野を持つ、深みのある人間になれるのか?昔日の「教養」を廃するとしても、それに替えて何をあてがうのか、というのが、根本的な問題になってきます。ある人は、他の優れた人間とのつきあいを重視するでしょうし、ある人は、映画や音楽といった芸術を推奨するかもしれません。日常生活や旅行といった実体験を重視する人もいると思います。
それとも、いっそ開き直って、「幅の広い、深みのある人間」というのを理想像としないかです。そんなものは犬にでも食わせておいて、クールに生きていったほうがマシと思う生き方です。重苦しいことは棄てて、ベッカムやキムタクみたいにカッコよく生きることを選択するか;
答えは一律ではないし、一律であるべきではないでしょう。だけど、年齢が高まるにつれ、この問の重みは増してくるのは確実です。40歳にさしかかるころ、自分が若いときに選んだ道はもう変えられません。「無教養」路線で来た人が、急に教養人にはなれないし、「教養」路線できた人は、もう決してベッカムやキムタクにはなれません。20歳代で決めた路線が、終生続くのじゃないでしょうか。
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回复[31]:
冤枉啊
刘大卫
(2007-02-18 15:32:06)
本来生意惨淡(只卖掉一个给陈某,还没拿到钱),这又碰上东博士打假,还怎么混……
文凭不好弄了,那我得看看药品那边怎么样。
回复[32]:
东京博士
(2007-02-18 18:29:43)
昨天遇上一个号称清华的,我就立刻怀疑其真假,这都是大卫害的,现在凡是看见号称名牌大学的,都会条件反射地情不自禁想起大卫,你害了多少海内外“名牌大学”的声誉啊,从牛筋到腹胆。
回复[33]:
我还没有拿到货啊
陈某
(2007-02-18 18:43:22)
>>只卖掉一个给陈某,还没拿到钱
回复[34]:
管不了那么多了
刘大卫
(2007-02-18 21:36:16)
forget about it.
没拿到货?看来是中间环节出错了。算了吧,钱我也不要了。
我以后的方向转到批文方面了。
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