首页 >> 个人集合 >> 陈希我 >> 我的后悔录
字体∶
三岛由纪夫、平冈公威与我

陈希我 (发表日期:2006-12-14 21:20:10 阅读人次:3283 回复数:8)

  

  
我第一次见到三岛由纪夫,是在东京高轮一家不大的书店。当然我只是见到他的照片。像我这种年龄段的中国人,没有赶上以批判的名义阅读三岛的时代。即使改革开放了,我上了大学中文系,也很少接触到这个作家。第一次见,就见到了大量的他的生活场景。那是一本十分豪华的画册,他的住宅和陈设也极尽豪华。第三年,辗转迁移住处的我住到了那个豪宅的邻近,与之相隔一条不大的马路。纯属偶然,后来我才知道,那里有个“作家村”,其中就有三岛由纪夫的故居。

  
当年他就是从这里走出来,走向生命尽头的。据说,那个早上十点,车子经过他长女的学校前,稍事停留。他揶揄道:“在这种时候,如果是电影,就会配上感伤的音乐了。”说罢,他唱起了悲壮的《唐狮子牡丹》。车在高速公路风驰电掣,奔向市谷本村町陆上自卫队东部方面总监部。除了随行的四个人外,没人知道他要干什么。总监部门卫见是三岛由纪夫,爽快地为他放行。甚至他到了总监办公室,拔出日本刀“关孙六”,总监还将“关孙六”当作艺术品欣赏了一番。但是它的主人却挥起了刀。总监仍然没有反应过来,叫:“喂,三岛,不要开玩笑了。”发现对方表情异常冷峻,才恍然明白过来。

  
据说之后三岛走到阳台,向自卫队训话时。没有人听他的,一片嘘声,不停有人打断他,乃至发出怒吼:“住嘴!滚蛋!把他揪下去!”甚至,他的“盾之会”的会员也没有响应他的要求,无一人前来集合。三岛慨然留下了一句话:“在旁人眼里,我现在大概是个疯子。”

  
确实,他是个疯子。在他自杀的年代里,他的“誓为大君当丑盾”的思想简直不合时宜。直到几十年后人们才理解了他,但是他已经死了,已经死了几十年。这几十年里,他只是被当作疯子。他一定不愿意看到这种结局。一个人的行动,是为了结果,如果把行动看作一种投资,他岂能愿意自己投入生命换来的,却是现世的无意义?即使几十年后有了回报。相比之下,那个时代的另一个年轻作家就明智得多,他投入了时代的潮流,他就是后来得到诺贝尔文学奖的大江健三郎。顺应时代潮流,风险要小得多。也许有人会说,大江健三郎是斗士,反对战争,反对日本的政府,反对“右翼”。但是要知道,在战后的日本,反战是大潮流,即使现在“右翼”猖獗,也不过是叫嚣的一小撮;而在日本,跟我们不同,反政府是没有风险的,反而会让他显得特立独行(比如拒绝政府勋章),得到更多的支持,因此大江付出的代价是少的。倒是他儿子的残疾使他倍受困顿,也因此恰恰是这,成就了他文学的真正价值。这就是一个作家的苦命。一个作家的价值就体现在他跟常态的背离,不管他有意识还是无意识,愿意还是不愿意。据说当时人们对三岛自杀最为惊讶的是:一个如此著名的作家,居然干出这种事!他们不知道,正是反潮流,造就成了作家。

  
实际上,三岛由纪夫早已在写作中走向死亡了,他的死,不过是写作的继续。不要说早年的《金阁寺》,在他自杀的六年前,他也在《忧国》中体验了死;去市谷前,他写下了《丰饶之海》的最后一句话:“庭院沐浴在夏日的阳光中,一派静寂……”作为一个中国作家,我深深感觉到我们的文学中缺乏这种死的“静寂”,而满是俗世的活命哲学。而我自己呢?我曾经在三岛生命出走的住宅旁苟活过最屈辱和黑暗的时光。1989年后,我更加鲜明地沦为“世界孤儿”。人家骂我们中国人,特别是中国的福建人,喜欢用一个词:“难民”。我——陈希我没有像那个写《警世钟》的同胞陈天华那样,在同样离我住处不远的大森海岸自杀。直到今天我还没有这么做,还没心肺地活着。

  
我曾经说过,中国作家自杀的太少了,当然包括我自己。我说的时候,我头脑里闪现出一大列日本作家,包括三岛由纪夫。但是当我深入到日本文化,我又犹疑了。我甚至发现,作为日本作家的自杀,也许恰恰是他的败笔。大概再没有哪个民族比大和民族更钟情于死了。几十年来,日本人似乎又很理解三岛,对他的理解常常定位在他的“美的方程式”上——美=血+死。他的体内确实总是潜流着“对死的一种浪漫的冲动”。三岛在阐述他的美学理想时也说:“存在的确证,只能通过存在被破坏的瞬间、死亡的瞬间来得到保障”,但是这死亡,特别是切腹,其实是渗透着日本传统的武士意识的。在《关于残酷美》中,三岛由纪夫以红叶和樱花来比喻血和死,他指出:“这种深深渗透到民族深层意识的暗喻,对生理的恐怖赋予美的形式的训练,以连续数百年。”这与其是“美”,勿宁是传统;与其是传统,是大势,勿宁是“俗”。对于要活的中华民族来说,死是一种反动,而对于日本民族,死却恰是一种生。正如川端康成所相信的,生即是死,死即是生,生生灭灭,往返轮回。在赴死前,三岛取了那把“关孙六”后,也在书斋一张白纸上写下了两句话:“生命诚有限,但愿能永生。”他认为为天皇殉死是“近代日本人的思想的正统性”的体验,他是三呼“天皇陛下万岁”赴死的,这时的他,已经不再是作家三岛由纪夫,而是千千万万平庸的日本公民中的一个——平冈公威。(注:平冈公威是三岛由纪夫的原名。)

  


  


  




 回复[1]:  陈梅林 (2006-12-14 21:33:03)  
 
  好像是这么回事,”一切的好作家都是反动派。“

 回复[2]: 希我君:三岛的作品有着忧郁的美感! 孙秀萍 (2006-12-15 02:22:37)  
 
  他是脱俗的,这决定了他必将以特殊的方式提前走向死亡。

  
不久前刚读过他的金阁寺,说不上喜欢,但是颇有与希我君一样的同感。

  
好久不见你,突然就冒出了这么一篇,还挺让人担心的!所以最好还是我与我这几个字去掉,千万不要......

  
本来最近忙发不了帖子,偶然看了这个,就打个招呼!省得再发邮件了!

  
再发一篇类似的东西,供你参考!

  

 回复[3]: 不要担心,我不会自杀的,至少目前还该死地活着,呵呵 陈希我 (2006-12-16 00:16:35)  
 
  好久没有联系,回头拜读你那文章.

 回复[4]: 自杀的另一个原因 中哲修士 (2006-12-16 02:08:16)  
 
   陈希我先生,你好.我是日本人.

  
2000年公开了三島的遗书.内容是以下别人作的网页详细.你也许已经知道,为大家指出.

  
http://www.asyura.com/sora/bd5/msg/105.html

  
依据那个他为了阻止暴动而死.

  
我的中文力量还不够…….

  

 回复[5]: 中哲先生您好: 陈希我 (2006-12-18 19:22:07)  
 
  很抱歉,那个网页打开是乱码,但仍然感谢您的提供.不知还能否在别的地方看到?

  
对三岛,我情有独钟,您也感兴趣吗?也许我们可以多交流.

  
我的E-mail:chenxiwo2000@yahoo.com.cn

  

 回复[6]: 那是日文,你不能看到? 陈某 (2006-12-18 19:31:52)  
 
  转过来,能看到?

  
共同通信

  
01/05 07:32 総員決起は「時利あらず」 三島由紀夫の遺書明らかに

  
作家の三島由紀夫が、東京市谷の陸上自衛隊東部方面総監部に「楯の会」の一部会員と乱入、自決してからことしで三十年。これまで秘匿されてきた楯の会会員あての三島の遺書を四日、元会員が初めて明らかにした。

  
会員による総員決起は「時利あらず」と断念したこと、犠牲を最小限にするために一部の会員にしか行動を知らせなかったことなどが書かれており、三島事件のなぞを解明する貴重な資料になりそうだ。

  
三島から遺書を託されていた元会員で千葉県在住の会社理事、本多(旧姓倉持)清さん(52)は「三十年の節目で、新世紀への大きな転換点でもあり、明らかにする時期と判断した」と話している。 

  
遺書は一九七○年十一月二十五日の事件当夜、三島邸で瑶子夫人から手渡された。本多さん個人あてと、楯の会会員への遺書が同封されていて、会員への遺書は「楯の会会員たりし諸君へ」という呼び掛けで始まり、便せん四枚に書かれていた。(表記は原文のまま) 

  
三島は、全員で「会の思想を実現する」ことが「人生最大の夢」で、日本を「真姿に返す」ため総力結集し「事に当るべきであつた」と振り返る。だが、総員決起については「時利あらず」「全員あげて行動する機会は失はれた」「状況はわれわれに味方しなかつた」としている。 

  
文面からは、七○年安保の騒乱などに備えたものの社会は沈静化へ向かい、決起で成果を得ることが難しくなった、と三島が客観的な見通しを持っていたことがうかがえる。同時に、当時の状況を「魂のとりかへしのつかぬ癌(がん)症状」ととらえ、手をこまねいていなければならなかった、その「やむかたない痛憤」を、少数の行動で代表しようとした、と事件の動機を明らかにする。

  
一部で決起したのは「犠牲を最小限に止めるため」で「裏切つたのではない」と強調している。

  
楯の会解散後も「少数者の理想」が将来「結実」することへの期待を述べ「天皇陛下万歳!」と結び、「昭和四十五年十一月」と書かれていた。

  
本多さんあての遺書は、事件から十年後の八○年に公表されたが、会員への遺書は「時期尚早」と明らかにされていなかった。

  
[2000-01-05-07:32]

  
01/05 07:33 冷静な認識の中での決断 文学の原点「青春」の語も

  
「時利あらず」「青春に於て得た宝」。三島由紀夫の楯の会会員にあてた遺書には、自決を選んだ状況認識や、文学的な言葉がちりばめられている。そこから読みとれる作家の最後の思想はどこにあったか。またなぜ、あの時点で死を選んだのだろうか。 

  
文芸評論家の富岡幸一郎さんは「遺書からうかがい知れるのは、三島の行動が、自衛隊は決して動かないという冷静な認識の中でなされた点だ」と言う。

  
なぜ「時利あらず」という認識になったのか。富岡さんは、死の前年の反戦デモで三島が、自衛隊の治安出動を招く激しい騒乱状態を期待していたと推測する。 

  
「楯の会は本来、治安出動のゲリラ部隊として想定され、一九六九年が行動する最後のチャンスとみられた。そこで初めて自衛隊の存在意義が明らかになるという発想だった」

  
しかし治安出動はなされず、三島の考えでは日本はこの後も、自主性を失った対米依存の道を突き進む。「事件は時代に対する失望と、これ以上待てば会自体の緊張感を持続させられないという、ぎりぎりの状況でなされた決断だった」と富岡さんは言う。

  
三島研究家の安藤武さんは、この遺書の「青春」「終生の宝」という記述に注目する。九八年、三島の十代の書簡が見つかったが、安藤さんは「十代に三島文学の原点がある。この遺書でも青春という言葉がポイントになる」と話す。

  
二十代前半の会員が中心の楯の会は「若いうちに三島精神を焼き付けたいという三島の計画性の表れで、総員決起の機会が失われた時代状況の中で、何十年先でも三島精神が世に出ることを計算して書かれた」と安藤さんは見る。

  
[2000-01-05-07:33]

  
01/05 07:34 遺書全文 【編注】朝刊メモ(1)の(ハ)

  
楯の会会員たりし諸君へ

  
諸君の中には創立当初から終始一貫行動を共にしてくれた者も、僅々九ケ月の附合の若い五期生もゐる。しかし私の気持としては、経歴の深浅にかかはらず、一身同体の同志として、年齡の差を超えて、同じ理想に邁進してきたつもりである。たびたび、諸君の志をきびしい言葉でためしたやうに、小生の脳裡にある夢は、楯の会全員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現することであつた。それこそ小生の人生最大の夢であつた。日本を日本の真姿に

  
返すために、楯の会はその總力を結集して事に当るべきであつた。

  
このために、諸君はよく激しい訓練に文句も言はずに耐へてくれた。今時の青年で、諸君のやうに、純粋な目標を据ゑて、肉体的辛苦に耐へ抜いた者が、他にあらうとは思はれない。革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真價は全国民の目前に証明される筈であつた。 

  
しかるに、時利あらず、われわれが、われわれの思想のために、全員あげて行動する機会は失はれた。日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。

  
このやむかたない痛憤を、少数者の行動を以て代表しようとしたとき、犠牲を最小限に止めるためには、諸君に何も知らせぬ、 といふ方法しか残されてゐなかつた。私は決して諸君を裏切つたのではない。楯の会はここに終り、解散したが、成長する諸君の未来に、この少数者の理想が少しでも結実してゆくことを信ぜずして、どうしてこのやうな行動がとれたであらうか? そこをよく考へてほしい。

  
日本が堕落の渕に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の練成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。

  
私は諸君に男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。 

  
ふたたびここに、労苦を共にしてきた諸君の高潔な志に敬意を表し、かつ盡きぬ感謝を捧げる。

  
天皇陛下万歳!

  
楯の会々長 三島由紀夫

  
昭和四十五年十一月

  
(原文のまま)

  
[2000-01-05-07:34]

  

 回复[7]: 看了三島 中哲修士 (2006-12-19 01:42:25)  
 
   陈希我先生,请不用您字.我是43岁的酒鬼.

  
从前NHKarchive=存档电视上看了三島,他当司仪介绍诺贝尔奖得主川端康成,他的口气好像日本的国会议员的田中真紀子,看来并无什么天才的风貌.可是他对小说的影响很大,任何人也难否定.

  
其实我不喜欢读小说.但是鲁迅的《藤野先生》《一件小事》那样的自叙体小说珍贵.

  
home

  
http://www17.ocn.ne.jp/~ichitubo/

  

 回复[8]: 谢谢陈某兄,终于看到了,不是乱码. 陈希我 (2006-12-20 19:03:32)  
 
  中哲先生,我也是酒鬼,喝到痛风了,必须戒.看来纵欲的结果就是绝欲,你喜欢什么,老天就绝你什么.

 敬请留言(尚未注册的用户请先回首页注册)
用户名(必须)
密 码(必须)
标 题(任意)
内 容(1000字以内,图片引用格式:[img]图片连接地址[/img])
    添加图片
    

       我的后悔录
    “圣徒”之“恶” 
    后藤健二的责任感与无责任感——答日本某媒体问 
    为什么不能直面正常国家日本? 
    安倍的腰 
    张艺谋做错了什么? 
    大岛渚的“性政治”  
    夏目漱石:永远的困境 
    太宰治的“生”、“罪”、“死” 
    社会转型期与作家的选择 
    答《信息时报》“中国文学最好的时期?”专题 
    致德国作家君特·格拉斯公开信 
    北京人 
    给全国人大常委会的公开信 
    答《晨报周刊》:我们易怒易怨像个怨妇 
    铁主席,请用“哲学”说服我!——致铁凝主席的公开信 
    自由下的囚徒 
    “爱国贼”以及“爱国奴” 
    生命不是用来糟蹋的 
    中国文学的“现实主义”魔咒 
    理想者的挣扎  
     败诉:战斗到2009  
    "审判"《冒犯书》 
    我们屡屡被“爱国”绑架 
    审前会议被委以“国家机密” 
    哭谢晋 
    我起诉! 
    亡民的饕餮 
    我与老师的劫缘 
    茶世界 
    答《东南快报》问:“余秋雨大师工作室”挂牌 
    我们该遭“天谴”吗? 
    母亲(小说) 
    罪恶(小说) 
    奥运:改头换面的战争 
    答《晨报周刊》问:索尔仁尼琴——文学、祖国与良心 
    过去,而无法过去 
    向“老愤青”柏杨告别 
    久入鱼肆之后 
    考试 
    我们什么时候学会道歉? 
    瞧人家境界 
    穿和服的女人 
    换个角度看重庆“钉子户” 
    打屁股 
    我的真善美 
    新书《冒犯书》代后记:一个作家的诞生 
    答《南国都市报》问:陈希我与文学:谁冒犯着谁?  
    汉学家群起批判中国文坛 中国作家四面楚歌 
    为《新京报》“鲁迅逝世70周年”专题而作:《超越和未超越的》 
    三岛由纪夫、平冈公威与我 
    两耳锅系草鞋耳 
    应台湾《中国时报》“中国印象”专题之约而作:《尴尬之土》 
    东京审判,审判了什么? 
    抽烟 
    小说《我的补肾生活》连载三 
    小说《我的补肾生活》连载二 
    小说《我的补肾生活》连载一 
    另一种世界大战 
    第三只眼看道歉 
    小说《带刀的男人》连载二 
    小说《带刀的男人》连载一 
    小说《旅游客》连载二 
    小说《旅游客》连载一 
    一个理想主义者的三封信 
    小说《我们的骨》连载三 
    小说《我们的骨》连载二 
    小说《我们的骨》连载一 
    小说《晒月亮》连载三 
    小说《晒月亮》连载二 
    小说《晒月亮》连载一 
    小说《上邪》连载三 
    小说《上邪》连载二 
    小说《上邪》连载一 
    战场---也为母亲节作 
    小说《遮蔽》连载之三 
    小说《遮蔽》连载之二 
    小说《遮蔽》连载之一 
    小说《又见小芳》连载三 
    小说《又见小芳》连载二 
    小说《又见小芳》连载一 
    小说《风吕》连载四 
    小说《风吕》连载三 
    小说《风吕》连载二 
    小说《风吕》连载一 
    到丽江去 
    与命拉扯 
    被豢养的狼 
    人可生如蚁而美如神 
    我的后悔录 
    长寿则辱 
    大写意的吃 
    请让我成为您的孩子 
    何谓边缘生活 
    爱你,咬你! 
    又是一年樱飞时 
    手表如妻 
    开会 
    小说《抓痒》初版后记 
    小说《抓痒》台湾繁体版自序 
 
Copyright ◎ 2006-2010 东洋镜工作室 All Rights Reserved