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紫金草
晓亮 (发表日期:2012-09-23 16:32:09 阅读人次:1944 回复数:1)
ZT 地に、紫の小さな花を
日中交流研究所所長 段 躍中
「天に星 地に花 人に愛」といったのは、武者小路実篤であっただろうか。紫金草が今年も咲いたという手紙をもらったとき、その言葉を思い出した。
紫金草をご存じだろうか。私は、2005年、その花の名前を知った。何十回、何百回と通った道に、突然花が咲いていた。
ビニール紐に囲まれて、小さな紫の花が咲いていた。その花の横に、「日中友好の花紫金草」と赤い文字で書かれた標識が立てられていた。日中関係がぎくしゃくしていた昨年に、わざわざ「日中友好」と書かれた4文字を書き入れた標識。この花は一体誰が植えてくれたのか。大きな勇気が要ったのではないのか。そして、この花は道を通る人々に何を訴えているのか。それを考えて、胸が熱くなったことを覚えている。
調べてみると、「紫金草」というのは、日中に深く関わっている花であった。「全国紫金草ネットワーク」によると、薬学者であった日本軍衛生材料廠の廠長が、日中戦争で廃墟となった南京の紫金山の麓に咲いていた花の種を取り、持ち帰ったのだという。
氏は、戦争で命を奪われた人々への鎮魂と平和を願ってこの花を「紫金草」と名付け、家族や協力者とともに、この花の種を蒔き広めていった。今ではこの花は「むらさき花だいこん」と呼ばれ、日本全国どこに行っても、生えている。紫金草を植え、日中交流に大きな貢献をなさった方々に敬意を表したい。
紫金草を見た私も、心に誓った。日中友好のため、一層頑張りたいと。そのために、更に、微力ながら民間レベルの友好交流活動に力を入れていきたいと。
そのため、交流活動を促進する一つの活動として、一人でも多くの日本国民に中国に親しむ気持ちを持ってもらい、一人でも多くの中国人同胞に日本への思いを持ってもらえるよう、互いの言語で作文を書く「日本人の中国語作文コンクール」と「中国人の日本語作文コンクール」を実施し続けてきた。
それから2年して、2007年のつい先日、今年の紫金草の便りと写真が届いた。日中友好の花が咲いている。送ってくれた写真の日付を見ると、4月8日であった。温家宝総理が来日される直前である。例年より大きく鮮やかな花であった。
懐かしく、再び全国紫金草ネットワークのホームページを拝見していると、驚いた。「放談ざっくばらん」(『人民中国』2006年10月号)の記事が掲載されていたのだが、そこで「中国人の日本語作文コンクール」のことが紹介されていた。お書きになられたのは、全国紫金草ネットワークの斎藤文男先生。元毎日新聞記者で、南京大学日本人教師として教職についていらっしゃる。
先生は、担当されている3年生の授業で、全国紫金草ネットワークの紫金草合唱団(紫金草の故事を元にして作られた歌「紫金草物語」を歌う合唱団)のメンバー8人と交流会を行われたそうである。そして、「この交流会の感動をテーマに書いて応募した女子学生の作文が、コンクールで優勝した。学生の受けた感動が、作文を通じて多くの人に共感を与えた結果だと思う。」と紹介して下さっていた。
この第一回「中国人の日本語作文コンクール」一等賞となった高静さん(南京大学)は、紫金草に触れ、「平和は大砲の口にきれいな花を咲かせる力を持っています。すべての人が花が好きだとは限りませんが、目の前で炸裂した砲弾が好きな人は一人もいないに決まっています」と述べる。そして、「私は、平和を願う一粒の種となり、両国の友好のために小さな花を咲かせたい」(第一回中国人の日本語作文コンクール受賞作品集『日中友好への提言2005』より)と結んでいる。
私も、小さな花になれただろうか。一人一人の市民の活動から、日中友好への情熱を感じる。紫金草は話すことが出来ない。ただ、日中友好に対する思いを宿し、一生懸命咲き続けるだけである。
※ ※ ※
今年の紫金草の様子を知らせてくれた手紙には、こうも書き添えてあった。「今は紫金草の花も終り、実った種を採取する時期に入っております。
しかし、紫金草ネットワークによると、種は取るのが難しいらしい。「種は実ると、はぜて辺りに散るため採種には工夫が必要です。」日中関係も、同じことが言えよう。政冷であった昨年を思い出すまでもなく、民間から交流を行い、友好を育み続けていく必要がある。
今年は、日中国交正常化35周年である。「天に星 地に花 人に愛」を。砲弾で空が陰ることなく、地には花が満ち、人々は友情で結ばれることが望ましい。
最後に、もう一度手紙の一文を紹介して終わりたいと思う。
「来年も又、三月四月頃は見事な花を見ることが出来ると思います」
国交正常化35周年の翌年、日中はどのような関係になっているだろうか。来年は、日中平和友好条約締結35周年であり、北京オリンピック開催年でもある。日中両国で、皆さんや私が一層頑張れば、紫金草はますます花開くと思う。来年もあの小さな花に会いたい。
回复[1]:
晓亮 (2012-09-23 16:51:07)
紫金草的故事
1939年春天,曾经到过南京的日军军医山口诚太郎随日军来到南京城。以往的繁华已被战火摧毁,到处是坍塌的城墙、废墟和白骨,看到的一切让他惊诧和不安。不久他就被遣回日本。回国前他在紫金山下采集了一些种子,是一种在战争废墟上倔强盛开的紫色野花。
1940年春天,山口家的院子里开满紫色小花。山口没敢将他在南京看到的一切对人提起,只写了一篇短文连同他带回来的种子一起分发给自己的亲朋好友。短文是这样写的:这是我从中国大陆带回来的,我给它取名叫紫金草,如果你喜欢的话,就撒在你的庭院里吧……
此后20多年,为了让紫金草在日本更多地方生长,山口每年都将采集的种子装满麻袋,乘上火车,一路抛出火车窗外……
ZT 听到朋友讲起这个故事,真的好感动。
1966年4月的一天,《朝日新闻》的文学专栏里发表了一位华侨青年写的散文,他说中国有一种紫色野花叫二月兰,日本是没有的,但现在这种紫色的小花却在日本出现了,让他觉得非常亲切……
当时,77岁高龄的山口病在床上,听夫人读了这篇文章后,连夜让夫人给报社写了一封长信,讲述了紫金草的来历,并表示愿意无偿为人们提供种子。
1985年筑波世界园艺博览会上,山口先生的儿子向来自世界各地的参观者们分发了100万粒紫金草种子,紫金草的故事也传向世界。
大门高子女士被紫金草的故事深深地感动,于是她创作了合唱组曲《紫金草的故事》在日本公演。组曲描述了一个士兵如何走向战场……最后在战争的废墟中发现了紫金草,又把它带回了日本撒播……演出在日本引起反晌。
2001年春天,《紫金草的故事》在中国南京演出,南京大屠杀的幸存者含着泪观看了演出。
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